- 明治末期―大正3年
- もともと明太子の原型とも言われる「朝鮮型明太子」は、スケトウダラの卵を塩とトウガラシで漬けたものでした。日本にはこの時代に伝来したとされております。
- 昭和22年―28年
- 塩とトウガラシで濃く塩漬けされた明太子が主流だった最中、この頃から調味料を加えた「調味料散布型明太子」が日本で誕生します。
福岡県宗像市の辛子明太子の製造販売会社である「有限会社 うめ屋」は、
平成4年、水産加工会社(明太子部門)の工場長を務めた
初代・清永泰之により、その歴史は始まりました。
創業期は関西を中心とした量販店向け商品を製造。
あえて同じ九州内での同業種との競争をさけ、良品を出荷することに専念しておりました。
それから2000年をピークに、全国の明太子の需要が増えた時期でもあります。
同業者の製造を手伝うと同時に、自社ブランドを成長させるために、
博多駅近隣に10年間直営店を出店して、対面(個人)型販売にも注力いたしました。
そして清永邦子へ代表を交代し、店舗販売に加え、通信販売をさらに強化。
全国のお客様とのつながりを広げると共に、
辛子明太子の魅力を海外でも伝えるため、HACCP認定を取得し輸出事業を開始いたしました。
そんな様々な歩みを経て、今では創業から約30年もの歳月が経ちます。
創業当初は、創業者家紋の“松”に由来する「松屋」という屋号を使っておりました。
しかし、最上をイメージさせるこの屋号よりも、よりお客様との距離を縮めたいという想いから、
松竹梅の“うめ”をとり、 屋号を「うめ屋(うめや)」へと変更する運びとなったのです。
何よりもモノ作りにこだわった会社でありたい。
そして、人と人の想いをつなぐ製品づくりをしていきたい。
その想いの架け橋として“辛子明太子”があれば嬉しい限りです。
参考文献:成山堂書店出典「明太子開発史 そのルーツを知る」
今西 一/中谷 三男共著
兵庫県姫路市長より感謝状を頂戴しました。
フラグシップ店舗の開発。
味噌明太子について。
味噌明太子について。
味噌明太子について。
海外市場で戦うため、日本らしさを直感で伝えることができるよう、店内ディスプレイ、商品パッケージを依頼。
味噌明太子について。
チームラボデザインによる
リパッケージについて。
福岡が舞台に選ばれたため、即座に手を挙げた案件。ももち浜周辺の近未来が表現されている。
“食の神”総本山に明太子を奉納。
社名由来は、辛子明太子の“うめ屋”と市民大学を意味する“ブレイナリー”の組み合わせ。事業目的は、地域や志同じくする仲間たちと共に社会問題を解決し、世界を平和にすること。
ふるさと納税返礼品を共同開発し、2市で返礼する先行事例として。
トリュフ明太子のクラウドファンディング取り組み事例。
パリで行った明太子認知向上イベントについて。
カカオ豆からチョコレートバーまでの工程を一貫して行う“Bean to BAR”スタイル。イタリアからマシンを輸入し、有機カカオと有機きび砂糖のみで製造。
「UMEYA BRAINERY」について。
「UMEYA BRAINERY」について。
「UMEYA BRAINERY」について。
チョコレート文化を伝え育てる事業。
宗像市、福岡銀行(FFGビジネスコンサルティング)、宗像市商工会、株式会社マクアケさんとの取り組みを掲載。
「UMEYA BRAINERY」について。
“めんべい”をプラットフォームとして、“カカオを取り巻く諸問題”を伝えていくための明太子屋同士の異色のコラボ。
「UMEYA BRAINERY株式会社」とボゴール農科大学の間で「カカオの研究に関する協定」を締結。
宗像水光会総合病院様、宗像医師会病院様にペイフォワードで集まったチョコレートをお渡しし、医療従事者の休息の一助になります事を賛同者の代表としてご祈念申し上げました。
「UMEYA BRAINERY」の“4種の酵母菌発酵で作るチョコレートが貧困解決!?”が取り上げられる。
「チョコレートテリーヌパフェ」について
「UMEYA BRAINERY」とうめ屋の「みかん明太子」が取り上げられ、話題に。